昭和48年04月26日 朝の御理解
御神誡 一、「まめな時家業をおろそかにし物毎におごること。」
元気な若い者が、例えばブラブラしておると。仕事もしないと言う様な事やら、お金が物がふんだんだからと言うて、物事に驕る。いわゆる分に過ぎた贅沢をする。そう言う様な事を戒めておられる訳ですね。信心をさせて頂く者は、物事に驕る心やら所謂無精であるような事を戒めてあるわけです。これは信心がなかっても、やはりそうですね。信心がなかっても、それでは所謂冥加がつきるとこう申します。そんな贅沢な事をしよったら、冥加がつきるという。
所が矢張り人間は、つい贅沢になったり、楽な方へ楽な方へと、楽な方ばかりを取ろうとするようになります。そしてそこにはひとつの理屈もつきましてね。楽な方をとる事になる。昔の諺に「一銭を笑う者は、一銭に泣く」と言う様な、あれがございましたね昔。たった一銭ぐらい今の金でいうなら、たった十円位という所でしょう。たった十円くらいな金と言うて、十円くらいの金を笑う。
お粗末にする人は、又その十円の金で泣かなければならない様な事があるという訳です。実は健康であればある程元気であればある程、又段々物が貯まれば貯まる程働く喜び、貯めて行く喜びというものが生き生きとして出来てこなければならない。例えば信心でもそうです。何かそこに追い込まれる何とはなしに心配事が起きてくる。だからいうなら尻に火が着いた様な時に、一生懸命にお参りをするというのはね、是は私はまめな時に家業をおろそかにしておるから、そう言う事になるんだとこう思うですね。
信心というものはもう常日頃。まめな時というのは平穏無事、何でもない時愈々信心の稽古をさせて貰い。いうならば徳の蓄えが、力の蓄えが出来ておらなければいけんのですけれども。何かそこに追い込まれる。又は苦しい事になってくる、心配な事が起きてくると愈々神様が、成程それでもいいですけれども、それは例えば働いただけ、一生懸命打ち込んだだけ打ち込むけれども、それは打ち込んだだけおかげを受けておるから、もう帳消しになってしまっておるです。
苦しい時に、一生懸命にお参りをするというのは、そうでしょうが。心配な時に一生懸命参るというのは、そこで心配がなくる。というおかげは受けられても、貯まるという事はないです、それでは。ですから、平穏無事の時、まめな時に、本気で信心の稽古をさせて頂いておる。別にあれこれと頼む、お願いせんならん、苦しいからの神頼み的なものではないのですから、これならば必ず蓄えが出来て行く。そういう信心をしておかなければいけない。でないなと愈々の時に役な立たない。
もう本当に胸が詰まる様な難儀を感ずる時、私の福岡での修行中の時分に、もう本当にへとへとになる様な時に、それで胸が詰まる様な時に、神様は外へ出てみよ外へ出てみよと。例えば夏の夜空なんかを仰がせて頂きますと、空一面に星が輝いておるその大きな空が丁度自分一人の為に、その大空の真ん中に自分がおる様な感じがする。上を仰いで見れ上は大きな青空があり、又は星空を仰がせて頂いて上を見てみよ上を見てみよ。
もう大きなものに触れる時にです、自分の事などは本当に小さい事になってくるです。自分がどんなに切ないとか、苦しいとか言ってるけれどもです、その私の苦しか等は、それこそ些細な小さいものになってくる。そこから心は広がってくる。そこから心が大きくなってくる。豊かになってくる。楽とは心が大きくなる事だと言った様な御理解を頂いた事がありますね昔。確かに心が大きくなると言う事は、本当の楽というのは、心が大きくなると言う事です。
だから日頃何でもない時に、愈々心が大きゅうなるおかげを頂いとかなきゃいけません。どんなに腹の立つような問題が、イライラせんならん様な問題、苦しいような問題が起きてまいりましてもです。大きな心で受けたらもう何でもない問題じゃない。それが楽なんです。だから心が大きゅうなると言う事はです、只苦しいから一生懸命神様お願いしますと言う時の信心はね、大きゅうなる暇がないゆとりがない。今日お願いした事を今日頂かにゃいけんと言った様な時ですから。
ですから私はまめな時、家業をおろそかにし、まめな時に信心をおろそかにしておってはいけない。そういう心を大きくしていくという信心。昨日二十五日の研修会でございました。北野の秋山さんがお話をしておりましたんですけど。堤さんが亡くなられて、初めての北野の共励会が、二十四日の日に持たれた。十三日に亡くなられたから、丁度十日ぶりに、北野で共励会があったわけです。
それに何ともこう意気の上がらない共励会のような感じです。第一中村さんの所で共励会をするのに、肝心要の中村さんが、何か婦人会の用か何かでおられなかった。どんなに考えてもおかしい。それで集まった者が色々共励会は、結局堤清さんを偲ぶ会のようなことになったと言う様な、それは尊い事有難い事です。と言うてそんなら北野の方達の信心が、それでお終いになったと言う事もなからなければ、堤さんなんかは毎日参ってみえられるし、秋山さんも毎日参ってみえるし。
例えば中村さんとか、福島さんあたりも、やはり車がないからお参り出来んと言うたものの、やっぱり用があれば何日おきにかは必ず参って来よんなさるし。それで信心がなくなったと言う訳じゃないけれども、秋山さんが昨日言われるように、もう何か知らんけれども虚ろになった。何か知らんけれども力が抜けたようにある。今まで頼りにしておった人がポッンと亡くなられた。だから力が抜けられた。いうなら力落としをしたとこう言う。これはね例えば。
堤さんがそれを言うのなら、ほんにそうかも知れんというけれども、周囲のあんた達がそうであったら、是はもう大変な事だ。けれどもここば受け抜いていったら、愈々北野地区の御比礼になるぞ言う様な元気な心は出らんものかねと、私は申しました。人の事なら分かると。けれども人の事なら分かるじゃなくて、自分の事すら分かってない様な感じじゃ、いや人の事が分かるという段じゃなくて、はぁ堤さんああいう難儀な悲しい事に直面されて、けれども日頃頂いておる。
今日私が御教えを、どこを頂かせて頂こうかと思うたら、今のここの所を頂いたんですよね。大体はこちらの方を頂いたのです。御神訓と書いてある「訓」という字を頂いたんです。言という字を書いて川という字を書いちゃるですね。これを大体は頂いた。と言う事は、どう言う事かというと。私がいつも言うておる事を流してしもうたと言う事だ。日頃親先生が、どう言いござるか。
それこそ難はみがげ、難あってむしろ喜べとさえ言っておられる。そこに難儀な事があった時に、それをその節を大事にして行けばです、例えば北野なら北野の地区に、そういう大きな節があったとするなら。その節を元気な心で受けぬいて行けばです、そこから伸びるそこから芽が出る。いうならそういう時こそ又本当に心に神様が、こういう修行求めて下さるのだから、この修行の暁にはどういうおかげが受けられるだろうかと言う様な、生き生きとした喜びすらが湧かなければいけない時である。
本人の堤さんは、いざ知らずだけれども、周囲の人達はいうならば、そのくらいの事は日頃頂いておって、さあここが愈々北野の者が、いっちょ張って歩いてからでん参らなん時ばい、自転車ででん一つ参ろうじゃないのと言う様な元気を出さんならん時ではないか。それに自分達までも力が抜けた。参りゃおるばってん、もう本当にぼとぼととしたお参りと言った様な事ではね、それは参らんより良かろうけれども、生き生きとしたものに触れる事は出来ない。
日頃頂いておる教えと言う、神訓です、訓という字は教えという事。私が何時も言うておる事。それを愈々の時に流してしもうたんじゃどうなるか。今日はここん所を頂いた。それが、今日はまめな時、家業をおろそかにしだから愈々、只これば頼まんならんけん、一生懸命毎日参りよると、日々のおかげの方で帳消しになってしまうから、貯まっとらんから、そういう結果になるんだと。もう愈々是は私が若い時からの、私の座右の銘です。それはもういつも心の中に頂いておると言う。
「節を元気な心で受ける人は伸びる」と書いておりました。ですから節と思うた時には、それを元気で受けて行けば、必ずそこから伸びるです。どう言う様な事が人生の中にあっても、それを元気で受けてゆく人なら、必ず成功するです。所がそれでない人はそこから挫折します節から。そこからあやふやになってしまいます。それで本当のおかげが受けられるとは、力が受けられるとは思われません。節を元気で受けてゆく人は伸びるです。これは私の若い時からの座右の銘です。私の第一の生きる姿勢だ。
ところが昨日の朝、秋山さんお夢を頂いた。それが大変毎日お参りはしよるばってん、お寺に参りよると言った様な感じのお夢であった。所謂お寺と言や寂しいという感じ、寂しいお参り。それではおかげにはならん。生き生きとしたものにはならん。それから元気出して昨日から、単車でお参りをして来た。又昨日の研修会にも参加させて貰うた。色々お話を頂いておるうちに、それこそこらもう心からそう感じられたと思われる、「わかりました」と。もう改めて分かったと言う様な発言をしておられました。
もう今分かった位の事じゃない。大体は分かりきっておらなければいけない事をです、いうならば、今日の訓という字ですね。神訓の訓という字。日頃私が言うておる事を、流してしまいよる。日頃の教えをここで生かさなければいつ生かすかと言った様な元気な心のある人は必ず伸びる。必ず徳を受ける。必ず力を受ける。さあそういう蓄えが出来るような信心は、平穏無事な時に何でもない時に、一生懸命信心しておくからそれは必ず貯まるという訳です。
その事を私神様にお礼を申させて頂いておりましたら、昔焼酎に昔の焼酎は、三十五度と四十度で、私共が酒屋しておる時分のは、そげんでしたが。四十度という焼酎がございましたが、今はそんなのはないですわね。その四十度という焼酎を頂いた。焼酎はまあ言うならば、アルコ-ル分の飲み物としては安いし、あんまり品の良いもんじゃないです。けれども、お酒二合半も飲まにゃと言う様な人でもです、焼酎を一合なら一合飲むと、二合半に値するだけの酔いがまわる訳です。
ですから私が昨日、思わせて頂いた事は、もうそれこそえげつないまでの有難さ。そういうほんなこて苦しか時に、そげな有難さが人が疑う程しの有難さと言った様なものがね、こういう有難さを求めておかなければいけないですね。普通の酒の有難き勿体なき、恐れ多きと言われるが、十五度が十六度位のお酒ではです、愈々の時寒かなら寒い時なんかは酔わんです。ポ-ッともせんです。
けれども四十度もある焼酎を飲むと、一杯角打ちしただけでそれこそ酔いが廻る様にですね。所謂本当にきついというか、度数の高いそれは品はあんまり良くなくてもです。例えば私が所謂難儀困迫の時代に、ああいう中に本当に大坪さん、有難い有難いと言われるが、本当に有難いとかと言われておった様な、有難さというものは焼酎の、四十度も五十度もあるような、有難さではなかったかとこう思うですね。だからそういう有難さを蓄えておくと言う事も、日頃頂いておかなければいけない事です。
そういう稽古もしておかなければいけない。どう言う事があっても、それこそどっこいと受けられる力というものは、そういう程度の度数の高いいうなら有難き、勿体なき恐れ多きでなからなければならない。と同時にです例えば私共がです、どんなに心の中に切ない苦しい思いをする時であっても、大空を眺めさせて頂いて、本当に自分の悩み苦しみと言いよるけれども、神様の思いからしてみると。
ほんなもう点で押しただけ方もない、自分の苦しみを、本当に大空のような心にならにゃ、大空の様な心にならにゃと、自分の心を大きくしていくと言う事を同時に。そういう少し度がきつい程に、ほんなこてあの人はあげん有難かっじゃろうかと、人が疑う位な有難さを蓄えておかねば。この二つのね生き方が、日頃平穏無事な時に、所謂まめな時に、そういう信心の稽古をしておかなければいけない。
自分が何かおかげを受けなければならない事でいっぱいの時には、日頃どれだけよい素晴らしい御教えを頂いておっても、愈々の時に流してしもうたんでは役に立たない訳です。日頃の教えがこげん時に役に立つと言う様な、教えにしておくと言う事は、もうそれこそ平穏無事というかね、まめな時というかそういう時に、しっかり信心の稽古をしておかなければならない。
同時にです、どういうおかげを頂いてもです。物事に驕る事と仰る、そのそれを乱費するというか、それを贅沢にする様な事では、勿論いけません。今日は御神戒「まめな時、家業をおろそかにし、物事に驕ること」というこれは戒めのお言葉です。これは信心がなかっても同じ事が言えますけれども。私共は貯まれば貯まる楽しみを、愈々頂かせて貰うて、いよいよの時に役に立つ信心。
それは私共が苦しいからの神参りと言った様なものではなくて、不思議にです段々楽になってきてから、もうやあやあいう事は要らんちゅうごとなってくると、信心がおろそかになってくる。そう言う様な信心では到底愈々の時に役に立たないと思う。まめな時と言う事を、何でもない時平穏無事な時に、いうならばここへ参って信心の稽古、稽古という事は信心の蓄えをしっかりしておかなければいけないと言う事を聞いて頂いたですね。
どうぞ。